つらさを受けとめるということ➂

まずは、親のつらさから

 子どもは、自分の存在をかけて苦しさや不安を訴えてくることがあります。「今日はお腹が痛いし…休もうかな…。」という言葉もその一つです。しかし、親の方は子どものつらさを受けとめることはむずかしいです。なぜなら、親自身が孤立無援の状態におかれ、余裕がないからです。
 そんな時、親が共感的他者に出会えることで、心に安定が生まれ、今度はわが子に対して共感的他者となりえることがあります。親の会はその一つの場所です。

 Tさんが、自分の体験を話しました。「うちの子どもも不登校でした。(中略)…その子が、車の免許を取りたいと自動車学校に通うようになったんです。毎朝、私は『いってらっしゃい』と言いました。それが嬉しかったの。だって、今までは『行ってくるからね』と私の方が子どもに言っていたから。ささやかな幸せです。弁当を作れることも幸せでした。汚れた服を洗濯できることも幸せでした。」
 そこまで聴くと、隣にいたSさんが、下を向いてハンカチで涙を拭きました。心にたまっていた涙があふれてきたように思えました。TさんはそのSさんの肩にやさしく手をあてます。そして、わが子が、その後どのようにして人生を歩んでいったかと話を続けました。
 会は進み、Sさんの話す番が来ました。自分の体験を話しているうちに、涙が出てきました。じっと耳を傾ける「親の会」の方々。安易な慰めや無責任な助言はありません。そのかわりに「うちもそうだったよ。」「そういう時って不安になるよね。」「私も子どものことが憎らしいと思ったことがある。」「私も、自分がしっかりしないと…と自分をせめたなあ。」と気持ちを共有し合います。
 こうした「親の会」の時間を過ごすことで、自分の思いを受け止めてもらえた親たちは、今度はわが子の苦しさを受けとめ、向き合うことができるようになります。なぜでしょうか。

 親の会では、自分の苦しい思いを言葉にします。そして、その気持ちを、周りの人たちが黙って聴きます。また、(今の自分だから言えることではなくて)過去の自分の体験を重ねながら、それぞれが思いを語ります。その中で親たちは大切なことに気づきます。
 その一つが、ささやかな幸せです。「いってらっしゃい」と言うことができる幸せ。子どもにお弁当を作る幸せ。汚れた服を洗濯する幸せ。それは、ずっとひきこもっていた子どもが、自動車学校に行くようになったから分かったことです。Tさんの中には、「次は仕事に就いてくれれば良い」などという世間一般の見方でなく、「子どもが生きていることが尊い」という見方が根付いています。子どもが生きていることが尊いと言う見方をする親は、ささやかな幸せに気づきます。小さなことに満足します。過去でも将来でもなく、今を生きていることの値打ちに気づきます。
 二つ目は、心を聴くことです。Sさんのように苦しさを深い所で聴きとってもらえた時、親は自分が「苦しい」と感じて良いことに初めて気づきます。それまでは、あれもしなくてはこれもしなくてはと心が苦しさと不安で一杯一杯になっていたけど、心を聴きとられることで不安がゆるみ、少しですがゆとりが生まれます。そうすると、子どもの心の声が聞こえてきます。「子どもも、自分と同じように心を聴いてもらいたいのではないか」と気づきます。怠けている、嫌なことから逃げていると見えていた行動が、子どもの苦しさの表れであり、正常な行動と見えるようになります。

 不登校の子どもの保護者(教師)も、誰かに自分の思いをリアリティをもって受容・共感してもらうことで、はじめて子どもの「共感的他者」となるスタート地点に立つことができるのではないでしょうか。