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子どもの立場に立つ不登校支援②

不安や苦しさを受けとめることから

 仮に、子どもが不登校になった原因やきっかけを見つけて解決しても、すぐには登校できるわけではない。それは、不登校になる前と後では、子どもの状態が大きく変化をしているからである。学校に行かない(行けない)つらさを、周りの大人に受け止めてもらえないことで、子どもたちは心のエネルギーが枯渇しているのである。

 子どもたちは「ぼくがぼくであってはいけない。」「みんなと同じようにならないといけない(みんなと同じように学校に行かないと…)」「今の私のままではダメだ。」「学校に行くことができない私に将来はあるのか。」「このまま消えてしまいたい。」と自分を追い詰めながら、毎日を過ごしていく。自分が「どうしたいのか」という主体性は小さく萎み、「どうしなくてはならないか」ばかりを考えて毎日を生活するようになる。

 こうした時に、親や教師がどうすれば学校に行くようになるかを考えて、なんらかの支援をすることは、かえって子どもを追い詰めることにつながる。親や教師からすると、1日でも学校に行くのが遅れると、それだけ教室に入りづらくなるように思えるが、子どもの方はそれどころではない。学校に行けない自分を責めると同時に、その苦しい気持ちを誰にもわかってもらえない「孤独感」という二重の苦しさに追い詰められている。そうした時に大切なことは、子どもの苦しくつらい思いを受け止め、学校を休んでいることを受け入れることである。

 その際に、親や教師が理解をしておかなくてはならないことは「簡単に不登校をしている子どもはいない」ということである。中学生の時にいじめを受けて不登校をした青年は、当時を次のように振り返る…

気づけば、私はクラスの子たちから完全に孤立していた。最初は悪いのは私なのだから仕方ない、自業自得だと思っていた。しかし、日がたつにつれ、その状況は悪化していき、誰からも相手にされない、目があってもそらされる。近づいていくとあからさまに避けられる…ここまで来ると、さすがの私も自分の存在自体を拒否されているようで締めつけられるような思いになった。そして、教室の後ろの方に目をやると、そこにはそんな私を見てうれしそうに顔を見合わせる主犯格の人たちがいた。(中略)

 それでも、学校には毎日通っていた。親に言っても、何の解決にもならないし、心配をかけてはいけないと思ったからである。しかし、もう限界だった。どんなに待っても孤独な毎日は続き、誰にも声をかけれず、誰からも相手にされず、私にはどうしていいのか全くわからなかった。それでも、親には言えなかった。やっとの思いで出た言葉が「今日は、お腹が痛いし、休もうかな…。」だった。これが、私の勇気の全てだった。(後略)

 このように、不登校をする子どもたちの多くは、苦しさの限界に来た時に、初めて「学校を休みたい」という言葉または態度を発する。それは、自らの存在をかけたメッセージであることも珍しくはない。否定をされたら生きていけないほどの重さをもった言葉(行動)である。

 したがって、腹痛や頭痛を訴えながら「休みたい」という言葉や行動を見せる子どもにかける言葉は、「どうして行きたくないの?」という(責める眼差しの)原因探しの言葉ではなくて、「休みたくなるほど嫌な事やつらい事があるんじゃないの?」という子どもの生きづらさを受けとめる言葉でなくてはならない。