慶応大学出版会より、「不登校の子どもに何が必要か」(増田健太郎編著・定価2,000円+税)が出版されました。
その中に、「保護者への不登校支援と親の会の役割」(第1章ー4)のテーマで加嶋が執筆しました。
内容は以下の通りです。
①「親の会」の発足 ②子ども支援は親の安心から ③二つの形の親の会 ④気持ちの共有 ⑤陰性感情を言葉にする ⑥支援を拒否する親たちの心情 ⑥主体は子ども自身
2016年3月
子どもの立場に立つ不登校支援⑥
「受けいれる」とは何か
子どもを指導することで「変えようする」立場にいる教師は、「不登校を受けいれる」「ありのままのその子を受けいれる」という言葉を間違って解釈をしてしまうことがある。子どもの不安やつらさを、全て受けとめようとするのである。そうした教師の対応が、子どもに「あなたはあなたのままでいい」というメッセージを送ることとなり、しだいに子どもに自己肯定感を育てることができると思うのである。
しかし、そうした姿勢は、結果的に子どもの「言いなり」になる結果を生む。特に、不登校の子どもとの信頼関係を築く段階では、「言いなりになる」ことと子どもに「共感」することが混同されてしまいがちである。
高垣忠一郎氏は、「共感する」と「言いなりになる」ことの違いを、次のように語っている。
相手の「ありのまま」を受けいれるということは、「相手を変えようとしない」ということであり、相手の言いなりになるということではない。ところが、日常、あたりまえのように「相手を変えよう」として子どもと接している大人は、「相手を受容する」という聞き慣れないことばを聞くと、それを「相手の言いなりになる」というふうにしばしばひっくり返して理解する。つまり、ズカズカと子どもの内面に侵襲することを否定されたおとなは、「受容」がその反対のことを指すと早とちりをして、今度は子どもにズカズカと侵襲されることを許すのである。それをもって「受容」だと勘違いするのだ。(中略)
こうした自他の未分化なグチャグチャの関係を克服するには、自他の間に限界と境界をしっかりと設けることが不可欠である。それは他人の心の境界線の守りを侵すような脅しは一切使わないということであり、不当な要求にははっきりと「NO!」と言って自分をまもることである。自分にできないことは他人におしつけてはいけないし、自分にできないことは「NO!」と言ってよいのである。
(高垣忠一郎 「近年の少年犯罪の背後にひそむものについての一考察」 生活指導研究NO.22 P43~P44引用)
初めからこうしたことがむずかしいかもしれない。不登校の子どもを「変えよう」とするために、大人(教師と保護者)が「子どものためになる」と思うことをさせてしまいがちである。そうした時は、無理やりに登校をさせたり、病院に連れて行ったり、勉強をさせたり、ゲームを規制したり…子どもの内面にズカズカと足を踏み入れてしまうのである。
専門家の所に相談に行くと、子どもの気持ちを「受け入れる」ようにアドバイスされる。すると、今度は逆に子どもの言いなりになってしまう。「大人の愛情が試されています。」と言われたりすると、子どもを腫物のように扱うようになることもある。子どもからできないこと(無理難題)を言われても、「受け入れなければ…」と言いなりになってしまうこともある。こうした揺れ戻しの状況が生まれるのは、決してめずらしいことではない。
しかし、そこからが教師と子どもの「出会い直し」がスタートであると言ってもよい。
自分と子どもの間に限界と境界線をしっかりと設けるようにして、不当な要求には「それは、できない。」と言って、自分を守ることを始める。と同時に、以前のように子どもの内面にズカズカと踏み込むこともしない。
そのうちに、どちらかが言いなりにならないからと言って、イラつくのではなくて、「しかたない」と見極めること(見捨てるのではない)ができるようになっていくのである。
つまり、「受けいれる」ということは、どちらか一方が言いなりになることではない。自他の区別をし、境界を踏み越えさせないための「NO!」を、安心して互いに言いあえることこそが、受け入れるということなのである。大人(教師・保護者)が、子どもの要求に「NO!」と言うことは、子どもが「NO!」と言うことを認めることができることである。「NO!」と言っても、見捨てられることはないという安心感を子どもに与えることができるということである。子どもが、大人との関係の中で「自分のことは自分で決められる」と思える安心感をもてるということである。
不登校の子どもと向き合いながら過ごしてきた教師は、そうして、子どもには子どもの人格があることを認めることができるようになる。そして、子どもの生き方(不登校)を受けいれていくのではないだろうか。