大分合同新聞の朝刊で、ひきこもりの情報誌「IBASYO」のことが取り上げられました。
その記事を読んで、問い合わせがたくさんありました。
当事者や、不登校・ひきこもりで悩んでいる家族の元に届き、少しでも役に立てたら良いのですが。
ひきこもり情報誌 IBASYO ⑦
ひきこもり・不登校をしている青年たちと一緒に情報誌(全66ページ)を創りました。
当事者ならではの視点に満ちた内容となっています。
情報誌に掲載されている内容については、このホームページで少しずつ紹介致します。
希望する方には、無料で差し上げています。
ただし、送料はご負担下さい。
希望する方は、お問い合わせのフォームでご連絡下さい。
尚、冊数に限りがあります。
なくなりしだい、無料での配布は終了致します。
つらさを受けとめるということ④
「子どもの苦しさを受けとめるだけで良いのでしょうか?」
「そんなことをしていたら、ますます子どもは学校に行かなくなるのではないでしょうか?」
そうした声を聞くことがあります。親や教師にしてみれば、ある意味当然の思いかもしれません。解決を求める大人と今を精一杯生きている子どもとの間に生まれるすれ違いです。
大人が、不登校の子どものつらさを受けとめることは、子どもにとってはどのような意味があるのでしょうか。
不登校をしている子どもたちの中には、自分の苦しみを抱えきれずに「身体症状」や「問題行動?」として吐き出す場合が多いです。「こんな自分ではダメだ」「学校に行って頑張っていた前の自分に戻らないと…」と自分自身を責めながら、絶望感に押しつぶされそうな子どもたちです。また、自分を責めるのではなくて「こんな自分にしたのはお前たちだ。」と、親を責める子どももいます。夜中に「コンビニで漫画を買っって来い」と無理難題をいう子どももいます。
しかし、それらは裏を返すと「不登校をしている自分」を否定しながらも、どこかにわかってくれる相手(他者)の存在を求めている行動でもあります。苦しいながらも今を精一杯生きていることをわかってくれる人を求めている行動でもあります。
そうした子どもは、苦しみを共有し共に歩んでくれる人の「本気の応答」が得られると、自分を見つめることができます。周りの大人(社会)が認めないために、自らも否定してきた「不登校をする自分」を認めながら、これからどうしたいのかを考えようとし始めます。
アキ(仮名)は、小学2年生の時にいじめをきっかけにして不登校を始めました。ランドセルをひっくり返すという「問題行動」によって、母親を含めて周りの大人は学校に行かないことを認めてくれました。それからの5年間の不登校生活は、それまでに比べて比較的安心感のあるものでした。
やがて、思春期を迎えるアキ。母親からの心理的自立を始めるアキは、母親以外の共感的他者が必要となってきたようです。通常は友だちですが、学校に行っていないアキには、そんな友だちはいません。そこで、スクールカウンセラーの相談室のドアをたたくことにします。
アキの何気ない話を受けとめ、反応を返してくれるカウンセラーとのやり取りの中で、アキはどうしたいのかを考え始めます。考えることも学ぶこともやめてきた自分、傷つけられそうだったから誰かと親密な関係を結ぶことを辞めてきた自分、未来を考えることにフタをしてきた自分‥‥。それらは、これまでは自分を守るために必要でしたが、今のアキには少し違う。それまでの自分と別れを告げて、誰かと関係が結べる世界に足をつけることにしました。
高校3年生になったアキは、不登校シンポジウムのシンポジストとして参加します。「いつまで待てば良いのですか?」の質問に「永久に待ってほしい」と答えました。それは、共感的他者(母親やスクールカウンセラー)の「本気の応答」によって、自分自身を見つめ変えてきた実感から出てきた言葉です。
2017年6月6日(火)の「しんけんワイド大分」(18:10~19:00)という番組で、親の会のことについてお話ししました。
「1学期のこの時期に、不登校で悩む家族が増えていること」
「そうした時に、なぜ親の会が必要なのか」
「例会ではうまくいかないこと、子どもへの陰性感情を言葉にする事がなぜ大切か」
「親の会で体験を交流することで、ささやかな幸せに気づくようになる。そうすると、子どもは自分を見つめることになる」
等々についてお話ししました。
つらさを受けとめるということ➂
子どもは、自分の存在をかけて苦しさや不安を訴えてくることがあります。「今日はお腹が痛いし…休もうかな…。」という言葉もその一つです。しかし、親の方は子どものつらさを受けとめることはむずかしいです。なぜなら、親自身が孤立無援の状態におかれ、余裕がないからです。
そんな時、親が共感的他者に出会えることで、心に安定が生まれ、今度はわが子に対して共感的他者となりえることがあります。親の会はその一つの場所です。
Tさんが、自分の体験を話しました。「うちの子どもも不登校でした。(中略)…その子が、車の免許を取りたいと自動車学校に通うようになったんです。毎朝、私は『いってらっしゃい』と言いました。それが嬉しかったの。だって、今までは『行ってくるからね』と私の方が子どもに言っていたから。ささやかな幸せです。弁当を作れることも幸せでした。汚れた服を洗濯できることも幸せでした。」
そこまで聴くと、隣にいたSさんが、下を向いてハンカチで涙を拭きました。心にたまっていた涙があふれてきたように思えました。TさんはそのSさんの肩にやさしく手をあてます。そして、わが子が、その後どのようにして人生を歩んでいったかと話を続けました。
会は進み、Sさんの話す番が来ました。自分の体験を話しているうちに、涙が出てきました。じっと耳を傾ける「親の会」の方々。安易な慰めや無責任な助言はありません。そのかわりに「うちもそうだったよ。」「そういう時って不安になるよね。」「私も子どものことが憎らしいと思ったことがある。」「私も、自分がしっかりしないと…と自分をせめたなあ。」と気持ちを共有し合います。
こうした「親の会」の時間を過ごすことで、自分の思いを受け止めてもらえた親たちは、今度はわが子の苦しさを受けとめ、向き合うことができるようになります。なぜでしょうか。
親の会では、自分の苦しい思いを言葉にします。そして、その気持ちを、周りの人たちが黙って聴きます。また、(今の自分だから言えることではなくて)過去の自分の体験を重ねながら、それぞれが思いを語ります。その中で親たちは大切なことに気づきます。
その一つが、ささやかな幸せです。「いってらっしゃい」と言うことができる幸せ。子どもにお弁当を作る幸せ。汚れた服を洗濯する幸せ。それは、ずっとひきこもっていた子どもが、自動車学校に行くようになったから分かったことです。Tさんの中には、「次は仕事に就いてくれれば良い」などという世間一般の見方でなく、「子どもが生きていることが尊い」という見方が根付いています。子どもが生きていることが尊いと言う見方をする親は、ささやかな幸せに気づきます。小さなことに満足します。過去でも将来でもなく、今を生きていることの値打ちに気づきます。
二つ目は、心を聴くことです。Sさんのように苦しさを深い所で聴きとってもらえた時、親は自分が「苦しい」と感じて良いことに初めて気づきます。それまでは、あれもしなくてはこれもしなくてはと心が苦しさと不安で一杯一杯になっていたけど、心を聴きとられることで不安がゆるみ、少しですがゆとりが生まれます。そうすると、子どもの心の声が聞こえてきます。「子どもも、自分と同じように心を聴いてもらいたいのではないか」と気づきます。怠けている、嫌なことから逃げていると見えていた行動が、子どもの苦しさの表れであり、正常な行動と見えるようになります。
不登校の子どもの保護者(教師)も、誰かに自分の思いをリアリティをもって受容・共感してもらうことで、はじめて子どもの「共感的他者」となるスタート地点に立つことができるのではないでしょうか。