2015年6月

子どもの立場に立つ不登校支援⑤

教師が不登校のこどもを受けとめるということ

 教師が子どもの気持ちを受けとめるということは、どのようなことなのであろうか?
学校に行こうとしても、腹痛・頭痛がして登校できない子どもに対して、まずは「(今は)無理をして学校に来なくても良いよ。あなたには、休むことが必要かもしれないよ。」「起きることができないくらいに辛かったんだね。」「そんなに苦しい思いをしていたのに、気付かなくてごめんね。」と子どもの苦しさ(弱さ)を受けとめることであろう。
それは、手引書やマニュアルからとってきた共感まがいの言葉ではなく、子どもの状況に身を置いて、イメージを膨らませながら自分の心に問いかけてみることでつかんだ思いでありたい。「壊れそうになっている大切な教え児の立場に立ちたい」という「ぬくもり」でつつまれた言葉でなくてはならない。

 ある教師は、1週間以上休んだ子どもの家に訪問し、集金袋を渡しながら、親に対して「お母さん、ちょっとくらいお腹が痛いからと言って、そんなに簡単に休ませていると不登校になりますよ。」と玄関先で言った。その言葉を聞いた母親は、「先生は、朝の子どもの様子を知らないからそういうことが言えるんです。」と声を震わせて反論をした。これは、子どもに対してだけでなく、保護者に対しても「脅し」をかけて登校を促した事例である。

 また、ある教師は、保健室登校をやっとの思いでしている子どもによりそう養護教諭に対して「保健室で甘やかしているから、いつまでも教室に行こうとしない。もう少し、厳しくしてほしい。」と言った。養護教諭は、何も言えずに黙るしかなかった。これも、子どもの状況の理解のないまま自分の考えを押し付けた事例である。

「休ませれば、学校に来れるようになるだろう」と考えて、子どもの状況理解を深めることもなく、見返りを求めた「学校を休んでも良いよ。(でも、ちょっと休んだら学校に来いよ)」や「教室には来なくても良いから、保健室に来て勉強しよう。」という支援?は、子どもを指導の「客体」としてしか見ていない。その言葉は、解決に目が奪われすぎており、一種の「アメ」を与えようとしているに過ぎない。「共感」「受容」とは言えないものである。

 教師が子どもの不登校を受けとめるということは、教師の性(さが)である「学校に来てほしい」「教室で一緒に勉強したい」という思いを持ちつつも、「今は、この子にとって不登校は必要な時間(状態)なのである」ということを、実感を持って伝えることができるかどうかにかかっていると思われる。
しかし、 不登校「0」をめざす傾向が強まっている教育現場で、解決を急ぐあまりに「甘やかし」や「脅し」の向き合い方は増えているようである。また、不登校の対応についての報告が求められるために、何らかの関わりや支援を行わなくてはならない状況に追い込まれるのも確かである。そうした中で、教師は子どもの立場で世界をみる「ゆとり」が奪われ、その子の不登校を受けとめるということを難しくする新しい困難が生まれていると言える。

 教師も弱い一人の人間であり、世間体だとか評価だとかに惑わされやすい。そんな時こそ、「何のために自分がここで教師という仕事をしているのか」「なぜ、この子と向き合っているのか」を職場の仲間と共に絶えず問い直していきながら、子どもの不登校を受けとめなくてはならないと思う。

子どもの立場に立つ不登校支援④

実感のある言葉

 子どもの気持ちを受けとめるということが、あたかも「学校を休んでも良いよ。」「教室に行かなくてもいいよ。」と言ってあげることのように捉えられがちである。しかし、「実感」が伴っていないと、形だけ同調したその言葉は子どもの心には届かない。「学校を休んでいいよ。」という言葉が、学校に復帰をさせる方法やマニュアルとして使われる限りにおいては、子どもの苦しさを受けとめたことにはならない。

 子どもにしてみれば、家で少しでも元気が出てくると、保健室登校や空き教室登校などの「ソフトな登校圧力」をうけることになる。学校に行くのが無理であるならば、行きたくなくても医療機関や教育支援センター(適応指導教室)やその他の相談機関に行くことを迫られる。エネルギーがたまってくると、そのエネルギーを「自分がどうしたいかを決める」ために使うのではなくて、「教室以外の場所に行かなくてはならない」ために使い果たしてしまう。
学校にも行かず家で明るく過ごす子どもを見ていると、親は「いつまで休むのだろう」とイライラしたり、教師は「怠け」として見てしまう場合に、そうしたケースが生まれる。

 サチは小学2年生の9月から行き渋りを始めた。母親は、泣き叫ぶサチを車に乗せ、学校まで連れて行っていた。校門の所で教師が子どもを受け取り、別室へ。しかし、毎日のように泣き叫ぶ子どもの姿に、疑問を感じカウンセラーに相談した。「無理をして学校に行かせない方が良い。」というアドバイスをうけ、学校側とも相談して車で連れて行くことを止めることにした。朝、サチが「お腹が痛い。」と言うと、「お腹が痛いのなら、無理をして学校に行かなくてもいいよ。」と伝えた。しばらくすると、サチが少し元気を取り戻したので、学校とも相談して放課後に母親同伴で保健室登校をさせた。運動会も保健室で過ごした。保健室登校ができるようになると、宿題プリントを家に持って帰り、母親と一緒に勉強を始めた。

 学校は休んだが、サチの心は休んではいなかったようだ。保健室登校をしても、母親のそばを離れなかった。宿題のプリントはすることはするが、漢字などぐちゃぐちゃに書いた。「勉強なんかしたくない」と宿題プリントを母親の目の前で破いたりした。こうしたサチのケースは一般的にみられるケースである。

サチとの勉強(格闘?)に疲れた母親は、「勉強を嫌々させても意味がない。しばらく宿題のプリントは諦めよう。」と決め、サチに「学校の宿題のプリントはしばらくやめようか。嫌々勉強しても意味がないから…。」と本音で語ることができた。かわりにサチが興味を持っている雑誌を買ってあげた。一緒に読んでみると、なかなか面白い。そのうちに母親もその雑誌のファンになったそうである。保健室登校についてもサチの気持ちを大切にして、「行きたくなった時にだけ行く」と変えた。

 しばらくすると、サチの方から「お母さん、〇君と遊ぶ約束をしたから、放課後に学校に行っていい?」と尋ねてきた。休みの日に、サチが友だちと交わした約束である。その日以来、母親がいない時は、自転車を飛ばして友だちが待つ放課後の学校に行っている。

 サチの母親は「この子が楽しい顔をしてくれるのがうれしかったです。朝のこの子の顔を見ると、本音で『学校を休んで良いよ』と言えました。…」と振り返る。実感を持って受け入れるということは、子どもとの現実の生活を通して、笑顔で過ごさせるためには休ませることが本当に必要だと感じた場合にできることなのであろう。