子どもの立場に立つ不登校支援⑨

「待つ」ということ

 一般に「待つ」ということは「何もしないで見守る」ことであるが、待たれている子どもが安心感を持てている時とそうでない時がある。その分かれ道はどこにあるのだろうか。

 不登校の子どもは、みんなと同じように学校に行けない自分を責めていることが多い。どうにかしようと思うがどうにもならないで苦しんでいるのである。そうした時のこどもは「そっとしておいてほしい」という気持ちと「放っておかれると淋しい」という気持ちが混在する。相反して複雑に見えるこの気持ちは、「そっと見守ってほしい」「干渉しないでほしい」…でも、「見捨てないでほしい」「自分で考えていることを信じてほしい」と願っているのである。そうした子どもの気持ちを理解していくことが「待つ」ということだと思う。

 「このまま何もしないで社会に出ることができなくなるのではないか」と状態だけに目が向いて、子どもを否定的に見るのではなくて、「本人にとって閉じこもっていることは大切(必要)なことなのかもしれない」「この子は一日々々を一生懸命に生きている」と子どもを「命の存在」として見ることである。

 しかし、言葉で言うほど「待つ」ことは親にとって簡単ではない。

 かつて不登校をしていた子どもの親と電話で話していて気づくことがあった。久しぶりに話をする星の会の数十名の会員さんのほとんどが、「今は自立して働いています。一番苦しい時に星の会(不登校を考える親の会)に出会えて良かったです。」と言う。「子どもが不登校やひきこもりから動き始めるのに、何が大切だと思いますか。」と尋ねると、しばらく考えて返ってくる答はみなほぼ同じである。

 「結局、子ども自身がその気にならないとどうにもなりません。親があわてていろいろしている間は、子どもは動きませんでした。『仕方がない』と親が腹をくくると、不思議と子どもはその気になるみたいです。」という答である。「待つ」ことが手段ではなくて、苦しみぬいた末に見えてきた親の愛情(結果)なのである。

 ところが、この腹をくくるというのがむずかしい…。自分の思い通りにならない子どもに対して、かけがえのない存在として愛することができるかどうかが求められるからである。 多くの親は、不登校やひきこもりをする子どもに接して、うろたえ、悩むことをくり返す。いろいろやってみるけど、思い通りに子どもはなってはくれない。それどころか、いろいろすればするほど、子どもは元気をなくしていく場合もある。「子どものため」と思ってしてきたことが、子どもを追いつめていることを実感し、それは実は「自分のため」にしていることに気づかされる。

 「今のこの子は、学校に行かないこと以外は普通です。学校に行かせようとするとおかしくなる。今のこの子に学校は必要なんでしょうか。」
 「親の思いばかりを押しつけていました。子どもは自分なりに頑張っていたんですね。」
 「もう、しゃ~ないなと思うようにしました。そしたら私も楽になり、娘も笑うようになったんです。」
 「息子は、こうした時間を過ごしながらでないと、自分の本当の気持ちが見えてこないのかもしれませんね。」
 星の会の例会で、会員さんが口にした言葉である。「思い通りにならないけれど…」ではなくて、「思い通りにならないから…」こそ、自分なりに一生懸命に生きているわが子の姿が見えるのではないだろうか。その親たちのつぶやきに、自分のこれまでの価値観・人生観を揺らしながら、子どもの命そのものへの愛情を確かなものにしている深さが感じられる。

 「待つ」とは、ある意味では、これまでの自分の人生観を否定しなくてはならないことなのかもしれない。