2017年5月

ひきこもりの当事者たちとつくった情報誌「IBASYO」

表紙ひきこもり・不登校をしている青年たちと一緒に情報誌(全66ページ)を創りました。
当事者ならではの視点に満ちた内容となっています。
情報誌に掲載されている内容については、このホームページで少しずつ紹介致します。

グリーンコープの補助金(100円基金)で作成することができたので、希望する方には、無料で差し上げています。
ただし、送料はご負担下さい。
希望する方は、お問い合わせのフォームでご連絡下さい。
尚、冊数に限りがあります。
なくなりしだい、無料での配布は終了致します。

<情報誌の目次> 全66ページ

はじめに

1手記
・不登校、不安に襲われる日々
・僕のアルバイト日誌
・たかが太鼓の達人、されど太鼓の達人

2居場所
・お気に入りの時間 ~癒しの世界~
・Go  fishing!
・私の居場所 ~本の紹介~
・私のお気に入りの映画紹介

3イラスト
・翠雨の世界
・くさかんむりの世界
・漫画 「はんぱねぇ世の中」

4情報
・中学校卒業後の道 ~自分に合った道を選ぼう~
・高認(高卒認定試験)体験記

5おわりに

不登校をどう理解するか(最終)

説得されて登校する時

 不登校だった子どもの中に登校を始める子どもがいます。思いは様々です。ミカさんは小学校の時に不登校でした。当時をふりかえって語ってくれました。

■ミカが学校に行ってみた理由(わけ)
 ミカ(仮名)は、小学2年生から不登校を始めました。小学4年生の時、担任に何度か登校を促されました。「午前中だけでも、学校に来てみないか?」「給食だけでも、来てみないか?」「保健室登校をしてみないか?保健室に来ると、出席になるよ?」「運動会に参加してみないか?」…
ミカは「保健室に行けるんやったら、教室にも行ける。それが、できんから苦しいのに…。」と思いつつも「あ、はい…。」と答えることしかできなかったと話してくれました。

 ある時、担任と母親が話し合って「4時間目まで登校させてみる」ことを決めました。 母親が「4時間目まで行ってみたら。」と促すけど、自信がなかったから黙っていました。母親の機嫌が悪くなり、「黙っていたらわからんよ。あなたがどうしたいのかをハッキリしないと。」と怒りはじめたそうです。
 仕方がなかったので「4時間目だけ行ってみる。でも、4時間目が終わったら、すぐに帰るよ。」と約束しました。母親が嬉しそうに学校に連絡をしました。

 久しぶりの教室はとても緊張しましたが、「この時間が終われば帰れる。今日頑張れば、明日はゆっくり休める」と思い、何とか頑張って居ることができました。担任は、友だちと楽しそうに話をしているミカを見て「大丈夫そう」と思ったようで、4時間目が終わっても「帰って良いよ。」「この後、どうする。」と言ってくれませんでした。自分からは、他の友だちとの関係で「帰って良いですか?」とは言えません。ひたすら、先生から言葉をかけてくるのを待っていました。結局、給食の時間まで教室に居ましたが、気分が悪くなり我慢できなくて「先生、気分が悪いので帰って良いですか?」と申し出ました。

 担任が「今日はすごい。給食まで居れたね。」と、嬉しそうに言いました。でも、ミカは「1時間のはずだったのに、どうして帰してくれないの。約束が違う。」と腹が立ったそうです。
家に帰ると、母親が「すごいねえ。給食まで居れたね…。明日はどうする?」と聞いてきました。「明日は、無理かもしれない。」と答えるのが精一杯でした。
 ミカは当時の登校について、次のように語ってくれました。
「学校が、本当に楽しかったら誰かに言われなくても行くけど、私の場合は楽しくなかった。それでも無理して学校に行ったのは、お母さんが喜んでくれたから。学校に行くことができなくて、親を悲しませてばかりいるから、なんとかして喜んでもらいたかった。それと、学校に行くとお母さんの機嫌が良くなる。そうすれば、家が私の居場所になったから…。」
(プライバシー保護のため、少し事実と変えています)

■ミカの体験から見える不登校理解と支援
①不登校の子どもが登校する時は、「何か良いことがあるかもしれない」と思う時もあるが、ミカのように周りの大人のために行っている場合がある。特に、家族の言い合い(葛藤)が強いと、「自分が学校に行っていないからだ」と考えて、無理をする場合がある。
②登校した際に「普通」にしていても、本人は無理してテンションを上げている場合がある。だから、「このまま慣れさせる」のは、大人の善意であっても本人にとってはソフトな押しつけとなり、結果として大人への信頼を失うこととなる。それは、後々のことを考えるとマイナスとなる。
③帰りの時間を約束して登校させたら、時間を延ばしたい時は、誰もいない所で同意をえる。

不登校をどう理解するか➂

学校・社会との関係で捉える

不登校の原因を子どもの性格や親の子育て等、個人の問題と考えることに対して、不登校は社会の問題と捉えている方々もいます。その一人が、「登校拒否・不登校問題全国連絡会議」代表世話人の高垣忠一郎さんです。高垣さんは、日本の社会が変化していく中で学校が高速道路のようになった。不登校は、その警鐘であると捉えています。

■不登校の歴史

 昔の子どもたちが学校に行かない状態を表す言葉は「怠け休み」でした。1950年代後半から、家の事情や怠学以外で休む子どもが出てきました。「学校恐怖症」(大きな不安を伴い学校に行けない症状)という名称が用いられるようになりました。
 当時の不登校は病気として見られ、治療するものだったのです。その原因としてでてきたのが「分離不安説」です。それは、家族のあり方や子どもの性格に問題があるという考え方です。
 1960年代の高度経済成長期に入り、学校は子どもの「人格の完成」よりも社会に役立つ人材を育成する方向に変わっていきました。 1970年代になってオイルショックを境に受験競争が激しくなり、家でも「家の手伝いよりも勉強をしなさい」という親が増えました。
 1960年以降、不登校の子どもの数も激増します。学校が子どもの成長や発達に合わなくなったのだと考えられます。
 不登校の子どもが増えることで、原因を家族のあり方や子どもの性格で説明をすることができなくなり、とうとう文部省(当時)は「不登校はどの子にも起こりうる」(1992年報告)と認識を変えました。

■学校は高速道路?

 高垣忠一郎さん(元立命館大学院教授)は、
「学校が高速道路のようになっていった。自分のスピードで走ることが許されず、止まることも許されない。常に周りに合わせて走り続けなくてはいけない。自分が自分であっては行けない所になっていった。不登校は、そうした学校生活に疲れ切ってパーキングエリアに入り、自分の心を守る行動。」という説明しています。
 子どもはパーキングエリアに入り、これからの進む道を考えているのかもしれません。心を癒し、もう一度高速道路を走るのか、それとも次のインターチェンジで高速道路を降りて、風景を楽しみながら自分のペースで走れる道を走るのかを考えているのでしょう。目的地そのものを問い直し、走る道を探しているのでしょう。
 不登校を社会や学校との関わりで見ていくと、今日の不登校支援の問題が浮き彫りになります。「学力向上」が重視され、子どもだけでなく教師自身が生き生きしていない学校…。その学校のあり方を変えないかぎり、不登校の子どもの人数が減少することは難しいと言えます。