2017年7月2日

不登校の原因さがしについて

◆子どもが不登校になると…

 子どもが不登校になると、多くの親は「どうして家の子どもが…」とショックを受け、担任は「何で…」と思い悩みます。そして、子どもに「どうして学校に行かないの。」「何か嫌な事があったの。」と「原因探し」を始めることが多いです。「クラスの人たちにいじめられているのではないだろうか。」「勉強についていけないのではないだろうか。」「友だちと何かトラブルがあったのではないか。」「先生の指導が厳し過ぎるのではないだろうか。」「育て方が悪かったのではないか。」「親の対応に問題があるのではないだろうか。」「この子の性格が問題なのではないだろうか。」と思いをめぐらします。
 子どもに学校に行かない理由を尋ねると、「理由がなくて学校に行かないのはいけない。」と思っている子どもは、今思いつく嫌なことを話します。子どもが「原因らしきもの」を口にすると、親と教師はその解決をはかり、子どもを学校へ行かせようとします。
 例えば、「先生(の体罰)が怖い。」と子どもが言うと、その解決をはかったり、進級する時に優しい教師のクラスにしたりして登校を促します。場合によっては転校をさせたりして登校を促すこともあります。学校に行かない原因が解決すると、学校に行かなくてはならなくなる瞬間です。しかし、「原因(らしきもの)」を解決しても、登校できない子どもたちは少なくありません。どうしてでしょうか?

◆原因さがし

 不登校を経験した子どもたちに当時のことを尋ねても、「どうして、不登校をしたのかわからない。」と答えることがほとんどです。明らかにいじめをうけて学校に行けなくなったケースの子どもに尋ねても、「いじめも原因かもしれないけど、それだけじゃないと思う。」「いじめはなくなったけど、どうしてか行けなくなったのかわからない。」という答が返ってくることもあります。つまり、不登校の原因を特定することは当事者の子どもにもむずかしく、様々な要因が絡み合っているということでしょう。また、原因が解決しても、心の傷を癒し、本人がおりあいをつけて、ためには、それなりの時間が必要だということでしょう。
 ただ、原因探しに意味がないとは思いません。深刻ないじめや体罰などは、子どもの不登校に関係なく、解決にむけて努力しなくてはならないのは当然の問題です。
 学習のつまずきが不登校のきっかけとなることもあります。発達障がいが関係しているケースもあります。こだわりの強さから学校生活に適応できにくい場合もあります。それらは、「不登校支援」というよりも、一人ひとりの子どもの発達を促すための支援・指導の工夫であり、学校に来させる(行かせる)ために行うことではありません。
 いずれにしても、親や教師が「どうすれば、学校に行くのだろう」と不登校の「原因探し」ばかりして、その解決をしながら登校を促していると、子どもに対して「今の(不登校をしている)あなたはダメ」「早くみんなと同じように学校に行かなければいけない」「不登校は悪いことで、早く良くならなければいけない。」というメッセージを送ることとなります。

◆原因の解決とは?

 以前に、斎藤環氏(筑波大学教授)の講演を聴く機会がありました。そこで「不登校は、外的な原因の有無を確認することが大切。原因があれば、それを解決しなくては子どもは元気にならない。」「解決とは①不登校の原因となった人の謝罪→②その人の処分→③不登校の子どもの納得」という話をされました。
 書面での質問コーナーがあったので、「そうした原因さがしは『犯人捜し』にならないでしょうか」と質問をしました。斎藤氏の回答は「私は犯人捜しをしなさいと言っているのです。」でした。ただし、その犯人捜しの目的は、子どもを学校に行かせるためではありません。子どもに元気を取り戻させるためです…とのことでした。
 確かに、子どもが学校に行けなくなるくらいに元気がなくなった原因を見つけることが大切な場合もあります。しかし、それは相手に謝罪をさせ、相手を処罰するためではありません。「犯人」に謝罪させ、「犯人」を処罰すれば、不登校の子どもは本当に元気になるのでしょうか。そもそも、不登校の子どもが元気になる「処罰」などあるのでしょうか。
 いじめが原因で不登校となった時は、子どもがいじめを受けてどれほど辛い思いをしたかを誰かにわかってもらうことが求められます。子どもは傷ついた心のこえを聴きとってもらうことで、少し元気になれます。
 また、いじめた人を憎んでいる場合も、その憎しみはおりあいをつけるのに時間をかけて良いと認める事が大切です。簡単に「憎しみをもっていたら前に進めないよ。」「そんな人のために、自分の人生をダメにしてはもったいない。」などと、アドバイスすることではありません。
 子どもが元気になることを目的とする「原因さがし」は、不登校の子どものつらさや苦しみや悲しみの理解を深めるためにすることが大切なのであって、「犯人の謝罪と処罰」のためにしていたら、結局不登校の子ども自身も苦しむ立場に追い込まれていくこととなります。