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子どもの立場に立つ不登校支援⑤

教師が不登校のこどもを受けとめるということ

 教師が子どもの気持ちを受けとめるということは、どのようなことなのであろうか?
学校に行こうとしても、腹痛・頭痛がして登校できない子どもに対して、まずは「(今は)無理をして学校に来なくても良いよ。あなたには、休むことが必要かもしれないよ。」「起きることができないくらいに辛かったんだね。」「そんなに苦しい思いをしていたのに、気付かなくてごめんね。」と子どもの苦しさ(弱さ)を受けとめることであろう。
それは、手引書やマニュアルからとってきた共感まがいの言葉ではなく、子どもの状況に身を置いて、イメージを膨らませながら自分の心に問いかけてみることでつかんだ思いでありたい。「壊れそうになっている大切な教え児の立場に立ちたい」という「ぬくもり」でつつまれた言葉でなくてはならない。

 ある教師は、1週間以上休んだ子どもの家に訪問し、集金袋を渡しながら、親に対して「お母さん、ちょっとくらいお腹が痛いからと言って、そんなに簡単に休ませていると不登校になりますよ。」と玄関先で言った。その言葉を聞いた母親は、「先生は、朝の子どもの様子を知らないからそういうことが言えるんです。」と声を震わせて反論をした。これは、子どもに対してだけでなく、保護者に対しても「脅し」をかけて登校を促した事例である。

 また、ある教師は、保健室登校をやっとの思いでしている子どもによりそう養護教諭に対して「保健室で甘やかしているから、いつまでも教室に行こうとしない。もう少し、厳しくしてほしい。」と言った。養護教諭は、何も言えずに黙るしかなかった。これも、子どもの状況の理解のないまま自分の考えを押し付けた事例である。

「休ませれば、学校に来れるようになるだろう」と考えて、子どもの状況理解を深めることもなく、見返りを求めた「学校を休んでも良いよ。(でも、ちょっと休んだら学校に来いよ)」や「教室には来なくても良いから、保健室に来て勉強しよう。」という支援?は、子どもを指導の「客体」としてしか見ていない。その言葉は、解決に目が奪われすぎており、一種の「アメ」を与えようとしているに過ぎない。「共感」「受容」とは言えないものである。

 教師が子どもの不登校を受けとめるということは、教師の性(さが)である「学校に来てほしい」「教室で一緒に勉強したい」という思いを持ちつつも、「今は、この子にとって不登校は必要な時間(状態)なのである」ということを、実感を持って伝えることができるかどうかにかかっていると思われる。
しかし、 不登校「0」をめざす傾向が強まっている教育現場で、解決を急ぐあまりに「甘やかし」や「脅し」の向き合い方は増えているようである。また、不登校の対応についての報告が求められるために、何らかの関わりや支援を行わなくてはならない状況に追い込まれるのも確かである。そうした中で、教師は子どもの立場で世界をみる「ゆとり」が奪われ、その子の不登校を受けとめるということを難しくする新しい困難が生まれていると言える。

 教師も弱い一人の人間であり、世間体だとか評価だとかに惑わされやすい。そんな時こそ、「何のために自分がここで教師という仕事をしているのか」「なぜ、この子と向き合っているのか」を職場の仲間と共に絶えず問い直していきながら、子どもの不登校を受けとめなくてはならないと思う。