子どもの立場に立つ不登校支援④

実感のある言葉

 子どもの気持ちを受けとめるということが、あたかも「学校を休んでも良いよ。」「教室に行かなくてもいいよ。」と言ってあげることのように捉えられがちである。しかし、「実感」が伴っていないと、形だけ同調したその言葉は子どもの心には届かない。「学校を休んでいいよ。」という言葉が、学校に復帰をさせる方法やマニュアルとして使われる限りにおいては、子どもの苦しさを受けとめたことにはならない。

 子どもにしてみれば、家で少しでも元気が出てくると、保健室登校や空き教室登校などの「ソフトな登校圧力」をうけることになる。学校に行くのが無理であるならば、行きたくなくても医療機関や教育支援センター(適応指導教室)やその他の相談機関に行くことを迫られる。エネルギーがたまってくると、そのエネルギーを「自分がどうしたいかを決める」ために使うのではなくて、「教室以外の場所に行かなくてはならない」ために使い果たしてしまう。
学校にも行かず家で明るく過ごす子どもを見ていると、親は「いつまで休むのだろう」とイライラしたり、教師は「怠け」として見てしまう場合に、そうしたケースが生まれる。

 サチは小学2年生の9月から行き渋りを始めた。母親は、泣き叫ぶサチを車に乗せ、学校まで連れて行っていた。校門の所で教師が子どもを受け取り、別室へ。しかし、毎日のように泣き叫ぶ子どもの姿に、疑問を感じカウンセラーに相談した。「無理をして学校に行かせない方が良い。」というアドバイスをうけ、学校側とも相談して車で連れて行くことを止めることにした。朝、サチが「お腹が痛い。」と言うと、「お腹が痛いのなら、無理をして学校に行かなくてもいいよ。」と伝えた。しばらくすると、サチが少し元気を取り戻したので、学校とも相談して放課後に母親同伴で保健室登校をさせた。運動会も保健室で過ごした。保健室登校ができるようになると、宿題プリントを家に持って帰り、母親と一緒に勉強を始めた。

 学校は休んだが、サチの心は休んではいなかったようだ。保健室登校をしても、母親のそばを離れなかった。宿題のプリントはすることはするが、漢字などぐちゃぐちゃに書いた。「勉強なんかしたくない」と宿題プリントを母親の目の前で破いたりした。こうしたサチのケースは一般的にみられるケースである。

サチとの勉強(格闘?)に疲れた母親は、「勉強を嫌々させても意味がない。しばらく宿題のプリントは諦めよう。」と決め、サチに「学校の宿題のプリントはしばらくやめようか。嫌々勉強しても意味がないから…。」と本音で語ることができた。かわりにサチが興味を持っている雑誌を買ってあげた。一緒に読んでみると、なかなか面白い。そのうちに母親もその雑誌のファンになったそうである。保健室登校についてもサチの気持ちを大切にして、「行きたくなった時にだけ行く」と変えた。

 しばらくすると、サチの方から「お母さん、〇君と遊ぶ約束をしたから、放課後に学校に行っていい?」と尋ねてきた。休みの日に、サチが友だちと交わした約束である。その日以来、母親がいない時は、自転車を飛ばして友だちが待つ放課後の学校に行っている。

 サチの母親は「この子が楽しい顔をしてくれるのがうれしかったです。朝のこの子の顔を見ると、本音で『学校を休んで良いよ』と言えました。…」と振り返る。実感を持って受け入れるということは、子どもとの現実の生活を通して、笑顔で過ごさせるためには休ませることが本当に必要だと感じた場合にできることなのであろう。