作成者別アーカイブ: fumiya-kashima

ひきこもり情報誌 IBASYO④

手記 「たかが太鼓の達人、されど太鼓の達人」 

表紙
ひきこもり・不登校をしている青年たちと一緒に情報誌(全66ページ)を創りました。
当事者ならではの視点に満ちた内容となっています。
情報誌に掲載されている内容については、このホームページで少しずつ紹介致します。

希望する方には、無料で差し上げています。
ただし、送料はご負担下さい。
希望する方は、お問い合わせのフォームでご連絡下さい。
尚、冊数に限りがあります。
なくなりしだい、無料での配布は終了致します。

<手記>たかが太鼓の達人、されど太鼓の達人  (文)フカケン

■はじめに

僕は通信制に通う高校三年生の(18歳の)男子で、とりわけ人より優れた容姿であったり、恵まれた体格を持っているわけじゃあないけど、一つとても熱中していることがある。それは「太鼓の達人」というゲームだ。ゲームセンターに行ったことがある方ならば一度は目にしたことがあるかもしれない。今では家でもDSやWiiなどといった家庭用ゲーム機でも遊べる。
なんだいゲームかよ、と思う方もいらっしゃるかもしれないけれど、どうか、たかがゲームと思わずに読んでほしい。このゲームを通して得られた経験や考え方に思い出、そして仲間や人間関係というのは今の僕には何事にも代えがたいものです。
太鼓の達人を続けていて、まさか自分が人間関係や人付き合いを学んだり、人間の汚い所、自分の汚い所を思い知らされたり、また「知ってるつもりだった」ネットの怖さを強く肌身で認識させられるなんてまったく考えもしなかった。

■そもそも太鼓の達人を始めた経緯

中学二年生の冬場に不登校になって、時間を余してしまってどうしようかと思っていた時に、小学校の頃仲間内で流行っていたゲームを思い出した。それこそが「太鼓の達人」だ。暇な時間ぼーっとしたり、かと思えば余計なことを考えて不安になってたりと家で楽しい時間というのをあまり過ごせていなかった。そんな時に思い出して、またやり始めて…久しぶりに味わった演奏感にとても酔いしれた。太鼓をする時間というのは、あの時の自分にとってはとっても貴重な時間だったんだなぁと思う。また、不登校だったっていう事情やら抜きに太鼓を遊ぶってこと自体がとっても楽しかった。やればやるほど結果が出るのがより一層僕をこのゲームにのめり込ませていった。
ゲーセンデビューしたのは元日で、親戚のいる大阪に行った時だった。家にあるゲーム機で遊べる太鼓に入ってる「夏祭り」や太鼓オリジナル楽曲「さいたま2000」なんかをよくプレイしてた。
実はA市内の全ての中学校の校則で、ゲームセンターに入ってはいけないという決まりがあって、補導員の先生たちが見回りに来る。もし見つかってしまったら面倒だから、A市とB市で太鼓をするのは避けていた。A市内はともかくB市内まで避けるのは、B市に住んでいる先生もいることを知っていたから。だから先生の目を心配する必要がほぼないであろう、旅先の大阪でデビューした。
けれどもA市に帰ってきてから、どうしても我慢できなくなって一度近くのゲーセンに行ってしまったことがある。その時に運悪く見回りに来ていた先生に見つかってしまい叱られた。学校にも呼び出されて「もう行きません」だなんて言って放免になったけど、こんなことで太鼓を諦める自分じゃなかった。

■宝の山

中学三年生のある夏の日、家族でA市内をドライブしていて、たまたま某ホテルに立ち寄った時のこと。中にゲームセンターがないかなー、なんて思ってちょっと探検していたら2軒見つけた。片方はどちらかというと20130309185540ぼかしゲームコーナーの方が近いかもしれなかったかな?大きいほうのゲームセンターはナムコのゲーセンで、店内にあった看板には「夏休みの間、開店二時間はフリープレイ(無料で遊べるという意味)」と書かれていた。これを見た自分は1秒と経たない内に、これは毎朝起きて行くしかないと決意した。小さいほうのゲームセンターには、古いブラウン管時代の太鼓の達人が置かれていた。この時代の太鼓の達人でしか遊べない懐かしの曲があるのを知っていたので、この機会にと100円玉を入れて遊ぶことにした。
こりゃすごいや、宝の山だなと思いながら曲を選んでいたその時、最高難易度である「おに」の☆10の筺体記録(きょうたいきろく・機械ごとにその曲のハイスコアをプレイヤーの名前と共に表示してくれるランキングシステム)に「You tube」にアップされている動画で見たことのあるプレイヤーのスコアネームがあった。前年、お隣の熊本県から全国大会に出場し全国三位に輝いたプレイヤーのものだ。ここ某ホテルでいつもやっている訳じゃないだろうなとはすぐに思った。きっとA市に家族旅行で来て、このホテルに泊まる時にたまたまみつけた懐かしい太鼓で遊んだ…って感じなのだろうと一人で考えた。それと同時に、そんな全国レベルで上手い人がこっちに来るんだ!って知っちゃったら、そりゃあ当然ビックリしてやる気も上がるわけで…。この「くまもとの達人」は2年後の全国大会で見事優勝を果たす。そんな超有名人の彼とは来年、再来年と会って交流を持つようになるのだが、この時は全くそんな事は思いもしなかった。
あの年の夏場はひたすら太鼓ばかりしてた。毎朝五時に起きてはご飯を食べて、五時半に家を出て自転車をこぎ出す。A市の長くてだらしなく続く坂と闘いながら某ホテルまで行く。そして開店六時から八時まで太鼓を夢中で遊ぶ。時間になれば家に帰るのだが、もう少し元気があったら今度はトキハのナムコに十時から行く(こちらはネットで調べて存在を知った)。学校に行く時より2時間も早起きするのも、大好きな太鼓のためなら全然苦に思わなかった。このエピソードは、他の太鼓仲間たちに話してもいつも驚かれる。

■人間関係

僕の一つ下に、福岡県のC市からこっちのD市にチャリで通って太鼓を頑張るヤツがいる。勉強嫌いが祟ってちょっと言葉の使い方を間違えたりしちゃう時もあるけど、とっても明るくて素直で、そんで面白い彼はこっちの大分じゃみんなから親しみやすいと評判だ。太鼓の腕前は県下トップクラスで、段位も「金名人」(「名人」の優秀合格)。話せば面白いしプレイしたら思わず見入ってしまう、そんな彼は県内じゃとっても人気者だ。かくいう僕自身も、彼と何度か県内外で遊んだりしている。
そんな彼を、気の毒ですごく辛そうだと思う事がある。主に彼の住んでいる福岡県のプレイヤーと、その福岡県に住むプレイヤーと親密な人の多い長崎県のプレイヤーにネットで顔をへんちくりんにいじられたりするなどの誹謗中傷を受けているのだ。なんでそんなことを彼等にされているのかというと訳がある(とはいっても、ネットで投稿された文章から僕一人で推測しているのに過ぎないので全てが真実かどうかは分からない。直接彼等たちに伺ってみたりはしていない、というかできない。「なんで誹謗中傷をしているんですか?」なんてまず聞くこと自体が怖いし、また聞いた後で僕自身も「あいつをかばう奴だ」「俺たちに歯向かってくる奴だ」なんて攻撃される可能性があるって考えたら本当に怖い…)。
去年の三月の終わりごろ、福岡県のE市のとあるゲーセンで大会が開かれた。その大会に彼も参加したのだが、その時の彼の言動や行動に対して癪に触ったと感じた人がとても多かったらしい(ただ、その癪に感じた事の半分は「そんなことで?」と思ってしまうようなものだったり…)。そして大会が終わったのだが、その日の夜のネット上での書き込みがすごかった。彼に対する批判や非難、誹謗中傷がびっしりと書き込まれていた。それはきっと彼の目に見えない所でも書かれていたに違いない。見ていてとても恐ろしかった。これは確かに彼が悪いな、と思う書き込みも中にはあるけれど、大半は感情から来たであろう酷い言葉ばかりで作られた誹謗中傷だらけだった。今回の大会とは全く関係のないことでも誹謗中傷されていた。
誹謗中傷は大会の日だけでは収まらず、なんとこの文章を書いている今日も続いている。例えばどこから引っ張り出したのか、彼が彼女さんと撮ったプリクラを面白おかしく不快な加工をして、貶(けな)す者同士でのやりとりで使ったりしているのを見た。また、東京などの遠方から来た人に対して悪評を告げ口したり…告げ口を聞いてしまった人の中には、彼の憧れのプレイヤーもいた。それだけにとても胸が痛い。腹が立つ気持ちは分かるけれど、不特定多数の人の目に触れるネットでそんな事を書いていて恥ずかしいと思わないのか。本当によくも一年以上も人の悪口を書き続けられるモノだ、バカバカしいと思う。

■これでいいのか

ただこの「バカバカしいと思う」一方で、僕自身これでいいのかと思う事がある。彼を誹謗中傷する側の人間と会った時に仲良く会話したり、一緒に遊んだり、また一緒に食事をしたりもする。実際に会ってみたら、そんなとても人を貶すような人にはとても見えないのだ。普通にお互いの事をたずねあったり、あの誰々さんが上手いですねとかそんな会話ができる。本当に普通のプレイヤーなのだ。けれども自分の可愛い後輩を、(彼らなりの理由や思いはあるけれど)貶している人間と知りながら行動を共にすることがあることに対して、果たしてこれでいいのかと思う。彼に対して「申し訳ない」と思わないのか、「後ろめたさ」を感じたりしないのかと思う。事実、両方の感情を抱えながらそんな人たちと付き合っている。
正直に彼等に「誹謗中傷をやめてください」なんて申し上げたいけれど、そんな却って火に油を注ぐような事をしたら自分にも…と思うと、怖くてとてもできない。「言う奴はいつまでたっても言うんだから気にしなくていい」と言ってくれる人もいるけれど、やっぱりとても無視できない。なんだか、自分はいいツラをした人間だなぁとつまらなく思える。
彼は自分が誹謗中傷されていることを知った時、「とてもショックです。もう福岡の大会や集会になんて行きたくない」と僕に打ち明けてくれた。実は僕も当日参加しようと考えていたけれど、お金が足りずにE市には行けなかった。もし僕が行けてたとして、一緒に彼と大会に参加して、注意ができてたのならどんなにあの辛いことが防げたのだろうと思う。これは僕自身の問題ではないけれど、ふと思い出した時に胸が詰まる。

■怪我をしたときにホッとする自分

僕はたまに左手の親指から手首にかけての腱が痛くなる。というのもこれは僕自身の叩き方が汚い(即ちへたっぴ)なことによる。この痛みがまだピリピリする程度ならまだしも、本格的に長引いたりして常にズキズキしたりとか、あるいはもっとひどくなっては太鼓どころじゃないので、痛みを感じたらサッとやめることにしている。ケガをする前、もしくはした時は太鼓をしないのが一番太鼓が上手くなる。
さてケガをした時に「ホッとする」時がある。というのもちょっとややこしい話になるけど。
僕は去年の夏場、自分の誕生日に十段を合格すると意気込んでいて、周りの人にもそう宣言してた。宣言したからには受かってみせると張り切って課題曲を練習しまくっていて、合格圏内まで持ち込めたときにちょうど両手首の腱を痛めてしまった。普段通りにバチを振ろうにも痛い。流石に明日起きたら治っているだろうと思っていたが痛みは引いていなかった。その翌日もそうだった。誕生日までに追い込みを掛けたかったのにまるで練習ができなかった。「宣言までしたのに受からないのではないか」という大きな不安が頭をよぎった。
でも、それと当時に、「ケガをしたんだから受からないのも無理はない(しょうがない)」という、どこか自分の中でもっともらしい、十段がどうしても合格できない「口実」を手にしたんだと喜んでいた。ケガをしたのは事実だし、たとえ練習では課題曲の出来栄えが合格圏内に入ったとしても段位を受けられなければ十段を合格することはできない。最悪のタイミングでケガをしたんだ、そしてケガをするまでは自分のやれることはやってきたんだから「もういいよね」と悔しがらずに自分を納得させていた(諦めさせていた)。悔しさがないわけじゃあなかった。こんな大事な時にケガをしてしまって十段合格が絶望的になった…とも思ったけれど、それよりも口実ができたんだとホッとした気持ちが強かった。
我ながらとても情けないと思う。達成したい目標に辿りつけれない事実を突き付けられた時は普通は悔しがるのに、自分はいい機会だと喜んでいたのが。この十段挑戦の時のケガの思い出は、受からなかった悔しさよりも自分の精神面の未熟さを思いだす。今でも後味が悪い。

■印象的な出会い

僕は今19歳で、太鼓の世界じゃ「大1世代」と呼ばれる世代になる。この「大1世代」は全国的に有名な実力者が多く生まれた世代として広く認知されていて、僕も同世代として気になるプレイヤーが何人かいる(年齢層が広いからこそ、同世代・同年代のプレイヤーは貴重。結構僕の世代以外の方も自分の世代のプレイヤーが気になっているみたいです)。何か大記録を打ち立てたのを聞くたびに会いたいと思っていた(ちなみに僕は全国どころか県内でもまだまだ未熟なプレイヤーです。精進したい)。
その会いたいと思っていた同世代プレイヤーと会える機会があった。去年の年末に福岡県のF市で開かれた大会があって、その大会に三人も気になってた同世代のプレイヤーがいた。僕の方から声をかけたのだが、三人とも僕の事をTwitter等で知ってたのか「あのフカケンさんねぇ、よろしく。」と笑顔で話してくれた。
そもそも九州の人間と本州の人間とが話をするなんて中々ないことで、そして貴重な同世代ときたらもうそれはそれは貴重な体験だった。三人の内一人が静岡県民でもう二人は東京都民なのだが、三人とも関東地方の情報について精通してたのでそれについて色々興味深いお話を聞かせて貰った。ご飯も食べに行きたかったが、あいにく時間がなくて今回は見送ることになった。
今は太鼓の達人のプレイヤーの多くがTwitterを利用していて、各地のプレイヤーと情報交換したり刺激を与えあったりしてる。僕は気になる人をフォローするんだけど、あえてフォローしない場合もある。というのも「この人とは絶対どこかで出会う機会があるだろう」と思った時。だいたい気になる同世代のほとんどは今もあえてフォローしていない。Twitterで先に知り合うよりもその場で顔を合わせて挨拶をした方がより印象に残ると思う。そりゃTwitterや口コミやらで名前は先に知られるだろうけど、実際に交流を持ち始めるとしたら顔を合わせた時の方がいい。

■僕が残した大きな資料 ~歴代全一表~

おそらくこれが、僕が太鼓の達人の世界…「太鼓界」に残した大きな資料だと思う。Twitterやら口コミやらで広まって、実際に見られたり使われたりしているなぁと実感している。自分がデザインやら載せる情報やらを一生懸命考えたものがみんなに使われているというのはとても嬉しい。歴代全一J-POP - コピー
さて「歴代全一表(れきだいぜんいつひょう)」ってなんぞや、と思う方が多いと思う。
まず「全一」という単語の意味。これは全国一位のスコア、及び記録という意味。連打がある曲の全一は、達人たちによっていつも熾烈な競争が繰り広げられている。
そして「歴代」というのは、太鼓の達人のバージョンがいくつか過去存在していたことによる。今の太鼓の達人は2011年の12月に従来のブラウン管から液晶に画面が変わったり、ナンバリング制(シリーズとして続けて行く時に「初代」「6」「14」などの数字を用いること)を廃止し、色などでシリーズを分けて行くなどのリニューアルがなされた。リニューアル前を「旧筺体(きゅうきょうたい)」、リニューアル後を「新筺体(しんきょうたい)」と呼び分けている。ちなみに旧筺体は今はレアなので見つけたらプレイしてみましょう。今の新筺体では遊べないお宝曲があるのだ。
新筺体になってから各バージョンを色で呼ぶようになった。
最初は無印、カツ丼と色とは関係なかったがイメージカラーというものはあった。三作目からはいよいよ色の名前になり、ソライロ、モモイロ、キミドリ、ムラサキ、そして現在稼働中のホワイト。
ここからが歴代(全一)表を作ったわけの説明やら、また全国のプレイヤーから見られるワケなのだが、新筺体も旧筺体もバージョンが変わるたびに全国ランキングがリセットされる。となると、ある曲…ここでは太鼓の達人といえば「夏祭り」としよう。夏祭りのソライロの時の全一は968880点だった。そして現在のホワイトの全一は966860点。比べるとソライロの全一のスコアの方が高いが、それを確かめるためにはいちいちソライロのランキングページにアクセスして確かめなければいけない。とても面倒だ。他の曲も同様に、今のホワイトでは全一かもしれないが過去のバージョンのランキングを調査するともっと高いスコアが記録されているかもしれない。しかしその度にムラサキからどんどんさかのぼっていくのは非常にめんどくさい。めんどくさい。何回も調査している僕が言うのだから間違いないと思います。真の全一スコア、即ち歴代全一を手軽にパパっと調べられる、全ての曲で手間が省けられるから歴代全一表には便利な価値があると思う。

■好奇心から始めた専用サイト

作り始めたきっかけは、神奈川県のこれまたさっきの同世代のプレイヤーがアップしていたプレイ動画に「カツ丼、ソライロ、モモイロ、キミドリ通じて歴代全一です」という一言が書き添えられていたこと。これを見て「へぇ~そりゃ相当やばい記録やな。…待てよ、となると、他の曲にも当然歴代全一はあるわけで…気になる歴代全一ボーカロイド・どうようし調べてみよう。しかも誰もやっていないみたいだし」と、確かこんな感じだった。誰もやっていないのなら自分がやろう、そしたらすっごく自慢になるぜとはちょっぴり思った。でもそれよりも、単純に自分の「好奇心」が上回った。誰のためにするとかじゃなくて自分のために調べてみようと思った。作り始めて完成が近づいたころ、「あれっ、この情報はみんなで共有したらとっても有意義じゃないのか」と思い始めた。そこで完成したらTwitterで公表したり、簡素ではあるが専用のサイトをちょっと設けてみたり。この表に名前が載ってる人からフォローをいただいたり、また連打の内訳(連打がそれぞれの連打に何打ずつ入ったのか)や動画の有無などの情報提供をいただくようにもなった。おかげで表は日に日に充実している。そして始めは一人で自分のために作っていた表も、いつからか全国の人と自分を繋げる一つの財産となった。太鼓の達人15年の歴史の中で初めて作ったのは、そう僕自身だと思うととても誇りに思う。
あれ、旧筺体のスコアも調査しないのと思う方もいらっしゃるかもしれない。けど調査しないのは訳がある。歴代全一ゲームミュージック
リニューアルでは名前や外見の他にもゲームのシステム面で大きく変化があった。音符1個あたりの点数、連打1打分の点数…そう、スコアの面でもガラッと変わってしまった。そのため、旧筺体と新筺体の両方にある曲で全く同じプレイをしてもハイスコアが異なることになった。そのため旧筺体と新筺体では同一曲をひっくるめたりできない。だから歴代全一表は新筺体のみで行っている。…じゃあ旧筺体は旧筺体で作ればいいじゃないの?と自分も思いました。けれど、旧筺体時代の全国ランキングに自分はアクセスできないため、自力での調査ができない。

そんな歴代全一表に関係することで、最近一つ悩みができた。ある人が、僕とは別に歴代全一表を独自に作り始めたという事。その人が歴代全一表を作るのを悪いとか、二番煎じだとか思っているわけじゃない。スポーツの記録、例えば野球ならNPB(プロ野球)やMLB(メジャーリーグ)の記録をまとめたサイトがたくさんあるように、太鼓の記録をまとめたサイトがたくさんあってもいいと思う。そうは思っても、僕の中で、ちょっとわがままな思いがある。これから段々、歴代全一表が色んな人に作られたり、また先ほどの「ある人」の作る歴代全一表にみんな行っちゃうことで、僕がみんなに知ってもらえる、自慢できる個性(特技)がなくなってしまうんじゃないかと。今まで僕しか作っている人がいなかったから、みんな広く知ってくれた訳で…。自分でも、結構わがままなこと考えてるなと思う。
元々歴代全一表は人のためじゃなくて、自分のために作るのがきっかけだった。ただ、他の人が独自に作り始め、それを知ってどう受け止めて…という経験を経てから今の自分と歴代全一表との(ある種の)付き合いを確認してみると、いつの間にか自分のステータスの一つとして接するようになったなぁと分かった。具体的には、制作する時の気持ちや動機の中に、人のためにやるだとか、人から評価されたいからだとかそんなのが混ざり始めた。これが悪いとは思わないし、また当初と思いが変わったことも悪いとは思わない。けれど、もし変えるとしたら、もう少し自分のペースでやってもいいんじゃないかと思う。他の人が作り始めようが、気にせず自分は自分の作りたいモノを作ればいい。長く取り組み続ければ、見てくれる人は見続けてくれるんだと信じてやっていきたい。

■太鼓を続けてきたことについて

ただひたすら前向きに、上手くなろうと思って練習を重ねて4年半プレーし続けてある程度の結果を出せた事が、自分の中では大きな自信になっている。自分が今までできなかったことができるようになるという、その瞬間がこのゲームは一番楽しい。そして僕の場合、自分の出した記録のほとんどは他の人からしたら大した記録ではない。けれど、一生懸命頑張って積み重ねてきた記録を「頑張ったね」「すごい」「上手い」なんて褒められた時はとっても嬉しい。イチローが3000本安打を打った時に「僕が何かをすることで僕以外の人たちが喜んでくれることが、今の僕にとって何よりも大事なものだということを再認識した瞬間でした」と語った。また、日米通算4257安打を打った時は「ここにゴールを設定したことがないので、実はそんなに大きなことという感じは全くしていないんですけど、それでもチームメイトだったり、記録の時はいつもそうですけどファンの方だったりと、ああいう反応をしてもらえるとすっごくうれしかったですし。そこですね。それがなかったら、何にも大したことないです」と語った。僕はこの2つの言葉にすごく共感して、最近振り返ってみて自分自身に当てはめてみたりしている。(大した記録はないけれど)僕が出した記録に対して驚いてくれたり祝福してくれたり、そういう瞬間こそが、今まで太鼓の達人を続けられてきた理由なんだと振り返った。スランプに陥った時は一緒に悩んでくれるし、他のゲームを一緒にして気を紛らわして焦りをなくしてくれる。結局ゲームなのだから、「自己満足」が目的だとは思う。けれど、いざこうして自分が続けてこれたのは、決して自己満足だけではなくて、周りのみんなと喜びを共有したり泣いたり笑ったりしてきたことなんだと分かる。切磋琢磨だってそうだ。そうじゃなきゃ自分のプレーをもっと磨こうなんて強く思えなかったと思う。どんな遊びも自分ひとりじゃ続けるのにも上達するのにも、そして楽しむのにも限界があるし終わりが来る。周りと苦楽を共にできるこの遊びは本当にこれからも続けていきたい。

■まとめ

太鼓の達人を始めた当初は、長く続く交友関係を得られたり、誰も教えてくれない太鼓ならではの貴重な経験ができるなんて思ってもみなかった。このゲームから得られた事の全てが僕の財産で、また僕自身の個性になっている。

つらさを受けとめるということ➀

マニュアルを乗り越える

 斎藤環さんという「ひきこもり」に関してはかなり有名な精神科医がいます。その方は「ひきこもり救出マニュアル」(PHP研究所)という本の中で、「ひきこもり」の対応のあり方を細かく詳しく書いています。読みながら「なるほどなあ。でも…?」と思っていました。親の会で話を聴いてきたことと、専門家の言うことには隔たりがあるのです。言葉に上手く言い表せませんが…。ただ、斎藤さんは興味深いことをこの本の中で書いています。

 いろいろな親御さんの対応ぶりをうかがっていると、時には私の考えとはまったく異なった考え方で対応して、成功している話も聞きます。私はそういう話を聞くたびに、最終的にひきこもりの立ち直りを促進するのは、親子関係のリアリティではないかと思うのです。
 たとえば、私は子どものスキンシップを禁じて、退行させないようにしましょう、と勧めています。しかし、時にはスキンシップを通じて立ち直りを成功させたという事例も聞きます。
 これは矛盾ではなく、その親御さんにとっては、そうすることが一番リアルな対応だったということになります。切迫した必然性のもとで選択された、まさに「本気」の対応は、しばしば小手先のマニュアルを超えています。(中略)
 私の本(「ひきこもり」救出マニュアル)は、こうした「本気」のリアリティに至れずに、親を演じつづけるほかはない方々のための演技指導書でもあります。
  (「ひきこもり救出マニュアル」PHP研究所より引用)

 斎藤さんの言う「本気」の対応とは、不登校やひきこもりで苦しむわが子を見ていて、そうせざるを得ない親の対応だと思います。マニュアルに頼っていると、子どもの不登校や「ひきこもり」を治そうとする意識が強くなりすぎる時があります。その結果、「良い親」「良い教師」を演じてしまうことになります。そうした時は、支援が子どもに安心感を与えるとは限らないのです。そして、子どもの変化が見えないと、「良い親」「良い教師」を演じつづけることが難しくなります。

 例えば、「学校を休んでも良いよ。」という言葉をかけることにしてもそうです。子どもの不登校を専門家に相談した結果、「学校を休ませて下さい。」という助言を受けることがあります。専門家の言葉であるから、行き渋りを見せた時に「学校を休んでも良いよ。」と親は言葉をかけます。教師であれば、「無理をしなくても良いよ。」と子どもに言葉をかけます。しかし、不登校を治す?ためにかけた言葉は、一般化されたマニュアルから発せられており、その言葉は子どもの心に届くとは限りません。

 なぜならば、「学校を休んでも良いよ。」「無理をしなくても良いよ。」は、理屈から生まれた言葉で、そこに実感がうすいからです。斎藤さんが言う「リアリティ」に至っていないからです。子どもが学校を休むことで、ますますだらだらした生活をすると、周りの大人は気持ちが揺らぎ、「学校を休んでも良いよ。」「無理をしなくても良いよ。」の言葉をかけることができなくなることさえあります。

ひきこもり情報誌 IBASYO③

手記 「僕のアルバイト日誌」 ~どこに不安を感じるか~

表紙
ひきこもり・不登校をしている青年たちと一緒に情報誌(全66ページ)を創りました。
当事者ならではの視点に満ちた内容となっています。
情報誌に掲載されている内容については、このホームページで少しずつ紹介致します。

希望する方には、無料で差し上げています。
ただし、送料はご負担下さい。
希望する方は、お問い合わせのフォームでご連絡下さい。
尚、冊数に限りがあります。
なくなりしだい、無料での配布は終了致します。

<手記> 僕のアルバイト日誌 ~どこに不安を感じるか~       文:M

「アルバイトは、いずれしなきゃいけないもの」という考えを持っていました。でも、「しなきゃダメになる」ということではありません。「お金がほしい」というよりも、何かできるアルバイトがあればやってみようと思っていました。

(1)郵便局での年賀状仕分けアルバイトで思ったこと

■なぜ応募しようと思ったのか

出来ると思ったからです。したくない気持ちもありましたが、「わずかにしたいなあ」という気持ちが上回っていたので応募しました。

■応募してみた結果

去年は履歴書を持って行き、面接をしましたが、今年は全然違いました。郵便局が履歴書みたいなものをく表紙れるというので取りに行ったら、そこで書くことになりそれで応募が完了しました。後日、郵送で合格の知らせが来ました。去年受けたときは落ちたので良かったです。

■説明会でのこと

このアルバイトには説明会がありました。会場に行くと予想通り学生ばかりでした。席に着き始まりを待っていると、周りの声が聞こえてきました。自分のことではありませんでしたが、誰かの悪口を言っていました。いずれ自分も言われるのではないかと思うと恐ろしいです。説明は配られた紙に書いていることを読み上げてくれるだけで終わりました。

(2)バイトの仕事日誌

■バイト1日目 ~自転車を停める時に気持ちが沈む~

周りが26日から始まる中、自分たちは28日から始まりました。自転車を停め、加嶋さん(56歳男性で友人)と合流し、待合室に行きます。このときの自転車を停める時間は気持ちが沈みます。タイミングが悪いと、他に停めようとしてる誰かに会うからです。仕事中や待合室にいるときは誰かに会うのはしょうがないけど、会う必要がないのに会う状況が苦手です。自由な時間だと何か言われる気がするから。

待合室に入り出勤簿に判を押し開始時間を記入し、開始まで待つ。駐輪場ほどではありませんが、待ってる間も気が沈みます。時間が来たら出欠確認をして作業場に移動です。振り分けられた班に行きました。加嶋さんとは違う班になりました。

そして仕事の始まりです。40近くに区切られた棚の1つから、そこにある住所表と年賀状を手に取り、自分の仕分け棚に行って1軒ごと仕分けます。例を出すと、〇〇地区の1丁目の住所表と年賀状を照らし合わせて一致する所にいれていきます。表にある名前や住所と違う場合は担当職員に質問します。仕分け終えたら1軒ずつ縦横交互にして輪ゴムで束ね元の棚に戻します。戻したら次の棚に移り同じことをします。これを繰り返していき、55分間作業をしたら5分休憩です。割とあっという間に過ぎました。思ったより休憩のとき喋りだす人が居ませんでした。

基本的に2時から5時の3時間勤務ですが、初日は1時間残業をしました。仕事が終わると出勤簿に終了時間を書いて帰ります。自分と加嶋さんに用事が無ければどこかの自動販売機に行き、飲み物をおごってもらいお話をします。仕事とかの話をしてから家に帰ります。

■2日目以降 ~3日目から嫌な想像~

2日目は大分市から郵便物が来る時間が遅くなるということで、3時から6時までになりました。作業に変化はありませんでした。特に困ったこともなく2日目が終わりました。3日目から、家に居ても仕事のことを考えてしまう癖みたいなのがでます。この日も3時からなんですが、朝のうちから嫌な想像をして、気が落ち着かないです。駐輪場で誰かに出会ったら、トイレに行きたくなったら、分からないことがあったら質問しなきゃいけないのか、などなどの想像をします。優しい人に質問するのも嫌になります。この感じはスーパーの品出しのアルバイトのときも感じたことです。行ってみれば収まるのですが。

担当が席を外したりするので、この日から宛先が分からない年賀状は棚の中に立てかけることになりました。いちいち質問する必要がなくて嬉しかったです。この日も無事終わりました。

4日目は11時からでした。終わったのは2時でした。加嶋さんは午前無理だったので、行きも帰りも1人でした。しかし1人でも大丈夫でした。加嶋さんは2時から1人でしたそうです。

5日目からは2時から5時に戻りました。たいした変化もありません。

6日目も同じく。

7日目はバイトの人数が減っていました。期間が終わったんだと思います。

8日目も減ったままですが、昨日は居なかった人がいたので、その人は休みだっただけみたいです。人数が減っている分一人一人が仕分ける範囲が増えます。しかし、年賀状もだんだん減っているので大変ではないです。むしろ楽です。というより人数が少ないので なぜかやる気が出ます。この日の自分らの班は4時に終わりました。加嶋さんの班は5時までだそうなので先に帰りました。

■最後の日 ~加嶋さんはいなかったけど~

9日目は遂にバイト最後の日です。加嶋さんは本来来る予定だったけど、用事があるので昨日が最後でした。仕事が始まりました。いつもと同じく終わらせて、最後なので片づけをしました。仕分け棚、鉄製の折り畳み台、その他諸々。上の階に持って行くので重い物を一人で運ぶと汗が出ます。「この程度で汗をかいてる」と言われてるかもなんて考えてしまいます。どうしても一人で運ぶのが大変な物は誰かと協力します。相手を探すのは大変ですが、一人で運ぼうとしている人の所へ行って、すかさず手を貸しました。緊張します。二人だと軽いです。それか、相手が力持ちかもしれないです。もしかしたら相手一人でも十分だったんじゃないかと思いつつ運びました。そして、片づけが終わり遂にバイト終了。

(3)バイトの感想

一言でいうと「普通」です。特段良かったり悪かったりということはないからです。普通ではありますが、応募する段階で去年と比べると、心の状態がかなり違うことが分かります。仕事内容は楽しいです。バラバラな並びをそろえるとこが良いです。関わった職員やバイトの中で物凄く悪いやつがいなかったのも幸いです。

気が早いですが、来年も応募するかはまだ決めることは出来ないです。今回は無事終わりましたが、それで自信がついたわけじゃありません。今回がうまくいったからといって、次回もそうとは限らないからです。なので、その時に決めることにします。色々長くなりましたが、行って良かったと思います。

ひきこもり情報誌 IBASYO②

手記 「不登校、不安に襲われる日々」

ひきこもり・不登校をしている青年たちと一緒に情報誌(全66ページ)を創りました。
当事者ならではの視点に満ちた内容となっています。表紙
情報誌に掲載されている内容については、このホームページで少しずつ紹介致します。

希望する方には、無料で差し上げています。
ただし、送料はご負担下さい。
希望する方は、お問い合わせのフォームでご連絡下さい。
尚、冊数に限りがあります。
なくなりしだい、無料での配布は終了致します。

  <手記>  「不登校、不安に襲われる日々」       文:RYO

僕は、もともと明るくて、外に出るのが大好きな活発な人間でした。小学校までは、人数の少ない学校だったけど、中学校に入って、人数が一気に増えました。今まで、知らない人、大人数の中で過ごすことが無かったので不安感はありました。けれど、中1の時はまあまあ明るく楽しく過ごせました。

中2になってクラスが変わりました。仲の良かった友達も別のクラスになりました。周りの知らない人と、話す勇気がなくて、小学校の時の自分に比べたら口数も一気に減りました。けれど学校に行くのは苦ではありませんでした。

学校に行きたくない、行けないになったきっかけは、知らない女子から、通りすがりに「キモイ、変人」と言われたことです。今まで、そんなこと言われたこと無かったし、何でそんなこと言うのかモヤモヤとショックがありました。

それがトラウマとなって、人とすれ違うたび、笑い声が聞こえると自分のことを言われている気がしてきて恐怖心が湧いてきました。

僕は、皆勤することを目標に学校に通っていたから、行きたくなくても無理して行きました。無理を続けた結果、トラウマ、恐怖心が染みついて、いつの間にか、対人恐怖、視線恐怖になっていました。保健室登校もできなくなりました。学校に行くのをやめて、家の中に居ても、外からの視線、笑い声が気になり、黒カーテンをして、一歩も外に出れない時期がありました。

今思うと、あのとき無理して学校に行ってなければ、誰かに正直に苦しさを伝えられていたら、こんなに苦しまずに済んだのかもしれないと思います。

外に出られない生活を変えたいと思って、精神科に通うことにしました。

1つ1つの病院を探していくのも大変でした。けれど、一人の先生と会ったことで、自分は勇気をもらえて、少しずつ外に出れるようになりました。

病院で教わったことは『認知行動療法・森田療法』です。自分の中では不安でもあえて不安の中に飛び込むことで、実際に起きているか、確認してみることが大切、自信をつけると教わりました。森田療法は、日常的なこと、掃除、食器洗い、ゴミ出し、出来ることを進んで行動する。毎日1つ1つの積み重ねで自分に自信をつけていくというやり方でした。

僕はまだ、完全には治ってません。まだ一人では外にも出れないけど、今の仲間とふれあいながら人に慣れて、対人恐怖と向き合いながらいずれは、高校に行くことが今の目標です。

 

 

ひきこもり情報誌 IBASYO➀

はじめに

ひきこもり・不登校をしている青年たちと一緒に情報誌(全66ページ)を創りました。
当事者ならではの視点に満ちた内容となっています。
情報誌に掲載されている内容については、このホームページで少しずつ紹介致します。

希望する方には、無料で差し上げています。
ただし、送料はご負担下さい。
希望する方は、お問い合わせのフォームでご連絡下さい。
尚、冊数に限りがあります。
なくなりしだい、無料での配布は終了致します。

はじめに

ついに、ひきこもりの当事者たちの手による情報誌ができあがりました。取り組み始めたのは2015年の6月ですから、およそ20ヶ月の時間をかけて作成したことになります。時間がかかったことは良くないこともありましたが、ゆっくりとした歩みの中でこそ生まれる物もありました。

表紙作成するきっかけは、星の会(不登校を考える親の会)の例会で出されたある母親のささやかな願いからでした。「うちの子どもが『同じひきこもりの青年と会いたい』って言っているけど…。」

みんなでどうすれば良いか考えました。

「同じ立場の人たちで集まる『しゃべり場』を開いたらどうだろう。」と提案してみました。ひきこもりを経験した青年が「そんな所には誰も行かないと思いますよ。」とバッサリ。「バスハイキングとかしたら良いんじゃない?」とあるお母さんが言いました。「ますます、誰も行かないでしょ。」と笑顔で答える青年。

いろいろ考えて、ひきこもりのことを伝える情報誌を作るために参加を呼びかけることになりました。情報誌の作成をきっかけに、ひきこもりの経験者や当事者が集まるのです。

当初、3名の青年と青少年自立支援センターの衞藤さんと加嶋の5人でスタートしました。話し合いは情報誌のことに留まらず、日常生活へと広がっていきます。「好きなゲームのこと」「今、夢中になっていること」「アルバイトのこと」…。

ある青年が、「せっかく始めたアルバイトだけど(2週間で)辞めようと思っている」と相談しました。理由などを聞き共感したり、辞め方の方法を一緒に考えたりします。(アルバイトの続け方ではなくて、辞め方を一緒に考えるなんて、当事者の集まりならではのことです。)そのうちに、「もう少し頑張ってみた方が良い」とアドバイスを始めました。その青年は、1ヶ月以上アルバイトを続けました。

しばらくすると、参加するかどうかを迷っていた女性の青年がひょっこり顔を見せてくれました。その青年のつながりで、新しい青年が参加してくれました。星の会繋がりで他の青年も参加してくれました。いつの間にか、10人の青年が参加してくれるようになりました。仲間が増えると、活動の幅は拡がり元気が出てきます。

編集会議以外にも、連絡を取り合いながら交流をするグループも自然に生まれました。情報誌の作成をきっかけにして、経験者と当事者が繋がることが出来たと思います。

情報誌作成にあたっては、「書きたいことを書く」「描きたい絵を描く」を大切にしました。「誰かの役に立つ物を作る」というよりも、「当事者たちが書きたい物を作れば、それが誰かの役に立つかもしれない」と考えました。

1ヶ月に1回のペースで編集会議をしたため、あまりこだわらないようにもしました。こだわりすぎると進まなくなるからです。また、せっかく書いた原稿にあれこれ意見を言うのもひかえました。それは善意であったとしても、その人にプレシャーを与えてしまいそうだったからです。アドバイスや提案は一応しますが、それを取り入れるかどうかは本人に決めてもらうようにしました。第4章の「中学校卒業後の道 ~自分に合った道を選ぼう~」だけはチームで取り組み、意見を重ねながら原稿を仕上げました。

ですから、手にして読まれる際に、内容と共に、その原稿を書いた本人の「今を大切に生きている思い」を感じていただければ幸いです。

この情報誌は、編集会議に参加してくれた青年だけで作る事は出来ませんでした。

編集会議には参加できないけど、協力してくれる青年も出てきました。一人はイラストを寄せてくれた翠雨さん。そのイラストは、子どもの心の世界の一面を見事に表現しています。音声を起こすのを手伝ってくれたOさんは、メールでしか交流はありませんでしたから顔を知りません。でも、いろいろ詳しくて、データのやりとりの方法などをアドバイスしてくれました。

会場も駅から歩いて行ける所が良いということで、「青少年自立支援センター」の一室を使わせていただけるようになりました。「映画とトークで拓くひきこもりの世界」というイベントでは、映画監督の榎園京介さんの協力もありました。印刷製本の費用については、グリーンコープの「100円基金」から補助をしていただけるようになりました。

たくさんの方々の支えによって、何とか発行することが出来ました。ありがとうございました。

この情報誌が、一人でも多くの青年の元に届くことを願っています。

 

不登校・教育研究所「明日(あした)が見える」

所 長    加嶋文哉